川越といえば、江戸時代からの地方都市でお年寄りの散歩向けというイメージがあります。
それはそれで価値のあることですが、航空の世界では、かって時代の先端を駆け抜けた女流飛行士がいたり、宇宙の世界では日本の人工衛星打上げ技術を築き、世界一流の技術で現代の宇宙研究を支えているロケット研究所があるという進歩的な一面もあります。
今回は女流飛行士に焦点をあてて探訪してみましょう。
戦前、女流飛行士は27名いたそうですが、そのうち埼玉県出身者が2名で一人は上里町出身の「西崎(旧姓松本)キク」飛行士、もう一人は川越出身の「田中(旧姓西村)阜子(あつこ)」飛行士です。

田中阜子飛行士の巻
田中阜子さんは、大正3年(1914)に川越市に生まれました。
同じ年、映画スターのアレック・ギネス(代表作「戦場にかける橋」)がロンドンで、前年にはヴィヴィアン・リー(代表作「風と共に去りぬ」)が英領インドで生まれています。
昭和5年に旧制「川越高等女学校」卒業(現、川越女子高校の前身)。その頃は高等女学校に進む女子は少なく、優秀な良家の子女に限られていたようです。
その後、東京文化洋裁学校に通っていましたが、昭和8年、どういう理由か東京に開設したばかりの「田中飛行機研究所」に事務員として就職しました。
このとき心ひそかに飛行士を目指していたのかもしれません。
その頃の民間飛行学校は、明日はどうなるかも判らないけど、ただ夢に賭けた命知らずの男たちが集まっていたそうです。良い育ちのお嬢さんにとっては、とてもまともな就職口とはいえません。ときに阜子19才。
しばらくして、飛行練習生となりましたが、天性の才能があったのか操縦技量がメキメキと上達しました。
そして、荒くれ男たちを尻目に、昭和10年に21歳で操縦士試験に合格して、教官を務める程になりました。日本で5〜6番目の女流飛行士だそうです。
このまま立派な飛行教官として後進の指導に専念するはずでしたが、人間、先のことはわかりません。
幸と言おうか不幸と言おうか、阜子さんは大変な美人だったそうで、映画会社のお誘いで22才のとき「日活多摩川撮影所」から女優としてデビューしたそうです。「女優飛行士」の誕生です。
こんな人、世界に類がありません。
主演の第1作は「翼の世界」、昭和12年製作の無声映画が残っています。上映には弁士が必要です。その後「嫁ぎ行くまで」、「青い背広」(♪青い背広で心も軽く、・・)と立て続けに出演し一躍スターとなりました。
そして、田中不二男氏(田中飛行機研究所長)とその年結婚、阜子23才。
田中所長は美人の教え子を手放したくなかったのでしょう。
媒酌は小笠原陸軍中将ご夫妻という立派な結婚式だったそうです。
翌年、東京の洲崎飛行場から川越に郷土訪問飛行をして機上からテープを撒いて市民の歓迎に応えました。
ほんとうに華やかなデビュー振りです。
ところで、田中阜子飛行士のその後ですが、郷土訪問飛行以降、公表された記録がなく杳として判らないのです。
まるで彗星のように現れて、彗星にように消えたとしか言いようがありません。
「いや、結婚して普通の幸福な生活を送ったようですよ」という人もいます。その通りなら、誠に結構なことだと思います。
この時代、米国の「アメリア・イヤハート」、ドイツの「ハンナ・ライチ」を始め、多くの女流飛行士は戦争の嵐のなかで数奇な運命を辿っています。日本の女流飛行士も例外ではありません。
旧制川越高等女学校の歴史を残す建築物は、現川越女子高校の煉瓦の脇門と記念館(作法室)があるのみです。
煉瓦の脇門は粗末に扱われていて残念です。正門の桜並木は、往時を思わせて毎年、美しい花を咲かせています。
所沢航空発祥記念館には、彼女が乗ったであろうサルムソン2A2型機と同型機のプロペラ、写真などが展示されています。
- アメリア・イヤハート(1897-1937):太平洋島伝い横断飛行中に行方不明。日本軍にスパイ容疑で捕らえられたとの説もあるが、日本側にその記録は無い。
- ハンナ・ライチ(1912-1979):マスコットとしてナチの宣伝に利用された。敗戦とともに家族を失い、南米に亡命。絶望的生活の中で60歳を過ぎてグライダーによる成層圏に達する世界高度記録をつくった。
(この記事の取材にあたっては、田中不二彦氏のご協力ならびに所沢航空発祥記念館の資料を引用させて頂きました。茲に厚く感謝の意を表します。)
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