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特派員便り 川越・所沢 バックナンバー
特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[天空山人]
〜竹間沢車人形の世界〜
埼玉県の三芳町文化会館「コピスみよし」で平成18年12月10日に開催された「竹間沢(ちくまざわ)車人形の世界」を見てきました。


竹間沢車人形「寿式三番叟」
(「コピスみよし」にて)


「竹間沢車人形」は三芳町竹間沢に伝承された人形浄瑠璃で、 今から約150年前(安政年間)に秋留村二宮(現:東京都あきる野市二宮)から 竹間沢村(現:埼玉県入間郡三芳町竹間沢)の前田家に伝えられたそうです。
前田家は昔は川越藩の御神楽師としての地位にあったそうです。
その人気は高く各地で興行するようになり、明治時代に最盛期を向かえましたが、大正時代には浪花節・新派劇・映画に押され、 時代の中に埋もれてしまいました。

昭和46年、埼玉県教育委員会の人形芝居緊急調査により、前田家より人形芝居用具が発見されました。
そして「竹間沢車人形保存会」により復元の努力が積み重ねられ、今回で5回目の公演をするまでになりました。
伝承と復元の経緯は「三芳町町立歴史民俗資料館」ホームページに詳述されています。


轆轤車での人形の操り
(「三芳町町立歴史民俗資料館」ホームページから)

轆轤車の構造
(「コピスみよし」にて)

この人形芝居の特徴は、大型の人形を一人で操り、ケツグルマという轆轤(ろくろ)車を用いることにあります。
轆轤車は、いわば小型3輪車で、演者はこれに乗って舞台上を移動します。
この独特の様式による人形芝居は、人形の所作が自然で表現も豊かです。
この人形芝居様式が残っているのは竹間沢のほか八王子と奥多摩町川野地区の僅か三ヶ所のみです。


傾城阿波の鳴門八段目「巡礼の段」
(「コピスみよし」にて)

演目は第一部:寿式三番叟、第二部:傾城阿波の鳴門八段目「巡礼の段」、第三部:車人形教室、 第四部:佐倉義民伝(甚兵衛渡しの段・住家親子子別れの段)でした。

出演者は竹間沢車人形保存会(会長:前田益夫、埼玉県指定民俗文化財・三芳町無形文化財)、竹本越孝(浄瑠璃、重要無形文化財認定、義太夫協会理事)、鶴澤駒治(三味線、芸団新人奨励賞<平成2年>)、 若松若太夫(説経節、東京都無形文化財指定)という錚々たる面々で、舞台装置は華麗で保存会の方々のよる人形の所作は 洗練されており、文楽人形浄瑠璃に比肩しうるものでした。

平成19年年度公演に向け、保存会の方々は稽古に励んでいます。
この「竹間沢車人形」が三芳町だけの伝統芸能にとどまらず、日本を代表する伝統芸能に発展することを期待します。
読者の皆様のご協力とご支援をお願いいたします。

三芳町立歴史民俗資料館へのリンク
三芳町ホームページ(「コピスみよし」催し物情報ほか)へのリンク

(記事・写真は「竹間沢車人形保存会」、「三芳町町立歴史民俗資料館」、三芳町文化会館「コピスみよし」のご協力と許可を頂いております。茲に関係者に厚く感謝の意を表します。)
記事:天空山人

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[天空山人]
〜川越ろうまん夢散歩(その11:太田道潅)〜
行き付けの酒屋の奥さんから「こんなお酒がありますよ」と勧められて買ってきたのが 淡海(おうみ)美酒「道潅」という清酒でした。
さて一杯と添え書きを見てびっくり、 太田氏十八世實則謹製とあり、滋賀県草津市の太田酒造(株)の特別本醸造と書かれています。
この間、川越市役所前でお目にかかった太田道潅様の御子孫ではないでしょうか。
太田道灌(1432-1486)は大変有名ですが、どんな人だったのでしょう?。

酒屋さんに勧められた淡海美酒「道潅」


道潅の生きた時代は、鎌倉幕府は滅び、足利尊氏の創設した室町幕府も衰退しつつありました。
関東では関東管領の上杉一族と古河公方(足利氏の一族)が覇権を争い、 あわよくば「将軍」の座を得ようと野心を燃やしておりました。 その上、北条氏も機会を窺っている状態でした。

室町時代は複雑でそれぞれの官位・官職がどういうものかよく判りません。
道潅は仏門に帰依した時の名で、武士としての名は「資長」ですが、 ここでは道潅に統一して記します。

太田氏は上杉家の分家の扇谷(おうぎがやつ)上杉家に仕え、 家老職に相当する家柄だったそうです。
ある日、道潅が鷹狩りの途中で雨に降られ、近くの民家に蓑を貸してくれるよう所望したのですが 、そこの娘は山吹の花を一枝さしだしました。
その意味がわからなった道潅は己を深く愧じ、その後、学問と詩歌の道に励み文武両道を極めた立派な武将になりました。
この有名なエピソードに因み川越市の花は「山吹」です。

七重八重、花は咲けども山吹の
実のひとつだになきぞ哀しき


道潅は大変優れた武将で、主君より能力が高くかえって疎まれる程だったと言われています。
彼は上杉一族のため、江戸城、川越城、岩槻城をつくり勢力の拡大を図りました。
単に土木工事としての築城ではなく、その地域を平定して統治したのです。
さらに「長尾景春の反乱の鎮圧」などで上杉の勢力範囲は広がり、道潅の武名も高まりました。 上杉一族の関東制覇は目前です。

川越城の図


ここで「道潅が城をつくり軍勢を増強しているのは謀反を企んでいるからだ」 と讒言するものが現れました。
これを伝え聞いた扇谷上杉家当主は道潅を呼びつけ謀殺してしまいました。
その時、道灌は「当方滅亡」と叫んだと伝えられるているそうでが、
その通り上杉は力を失い北に逐いやられ、室町幕府も崩壊して戦国時代へと 移っていきました。

以前に読んだ本では、道潅には三人の息子がおり、道潅の死後はそれぞれ縁者に引き取られたとのこと。
そしてある時、この三人が父の法要のため一堂に会しました。
これを見た周りのものは驚きました。三人とも天晴れな若武者に成長していました。
この三人が手を組んだら後々大変なことになる、なにしろあの道潅の息子達なのだ。
そこで、三人が謀反の謀議をしたと言いがかりをつけ殺してしまったと書いてありました。
そこで太田一族の血は絶えたと私は思い込んでいました。

歴史ってわからないものですね。

(下2枚の写真は連雀町山車その他から合成、また本丸御殿入場券面を利用させていただきました。関係者に謝意を表します。)
記事:天空山人

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[天空山人]
〜川越ろうまん夢散歩(その10:武将と伝説を北に訪ねる)〜
今回は市街の北を探訪しました。
川越は古い城下町ですが、堅固な城壁や聳え立つ天守閣はありません。
のっぺりとした関東平野の中ほどに位置するので、拠るべき懸崖とか小高い丘がないからです。
市街を巡って入間川が大きく北に膨らんで湾曲した後、東の荒川に合流し、 さらにその湾曲の内側に新河岸川があります。
この二つの川が外敵からの防衛線に当たるのでしょうか、 武将の館址とか合戦跡は二つの川のあたりにあります。
結果的に農民、商人の住む中心地は、城の攻防戦にも焼払われることがありませんでした。
中国の「城市」という言葉は、市民を異民族の侵入から護るため市全体を城壁で囲む形態をいうそうですが、 川越も城壁と川の違いはありますが、似ています。




札の辻
蔵の街「一番街」の北の端、「札の辻」交差点から歩きましょう。
名の通り、この辻は高札場で、お上が「お触れ書き」を掲示した所です。
東京都港区芝にも同じ地名が残っています。江戸と同じ地名が多いのも「小江戸」と言われる由縁でしょう。
太田道灌
ここを東に行くと川越市役所で、「川越城」を築いた太田道灌の像と大手門の標識があります。
ここは昔も今も支配・行政の中心です。
太田道灌は江戸城もつくっており、 昔の有楽町の都庁前にも道潅像がありました。道潅は約550年前の武将で、上杉家に仕えました。
市立博物館、市立美術館
さらに東に道をとると、市立博物館、市立美術館が左手にあります。
市立博物館を見学すれば時空を越えて「川越」を展望できます。
この博物館では、世俗を離れた「水琴窟」(注1)の典雅な音色を聞くことと「江戸時代の川越の模型」 を電気を消して貰って見る事をお奨めします。
「時の鐘」が整然とした町並みの中に高く聳えています。
"Oh!,Beatifull"と外国女性が感嘆してました。
川越城本丸御殿
博物館と道路を隔てた向かい側が「川越城本丸御殿」です。
川越城は明治の廃城令により消滅し「本丸御殿」は荒廃して 近くの学校の体育館がわりに使われていたこともあったということですが、 今では付属の建物も実物で復元され重要文化財になっています。
初雁城という優雅な別名を持っています。
三芳野神社
本丸御殿と駐車場を挟んで三芳野神社があります。
神社は荘厳ではありませんが、参詣路は「とおりゃんせ」の童謡で全国的に有名です。
”♪・・・この子の七つのお祝いにお札を納めに参ります。行きは良い良い帰りは怖い・・・♪”。
神社が川越城内にあったため、参詣の帰りには城の見取り図などをもってないか 厳しく吟味されたことがこの歌詞となったということです。
三芳野の地名は凡そ1200年前の平安歌人在原業平の歌に残っています。
氷川神社
新河岸川沿いの氷川神社は七五三のお参り、付属の氷川会館は結婚式場として大いに賑わっています。
ここの大鳥居は立派です。今年(平成18年)110万人を集めた「川越祭り」はこの神社の祭礼です。
川越夜戦跡
札の辻の北には三大夜戦(注2)の一つ「川越夜戦」跡が東明寺にあります。
約450年前の戦国時代、北条氏に川越城をとられた上杉氏が八万の軍勢で奪還にきました。
僅か三千の守備の城兵は、兵糧攻めにあい苦戦。
北条氏康は小田原から八千の兵を率いて救援にきましたが兵力差は歴然で、 翌朝に城を明渡すという和議をしました。
ところが夜中の12時に北条勢は城の内外呼応して奇襲に打って出て 上杉勢を壊滅・敗走させたと伝えられています。この上杉の子孫が上杉謙信です。

近年、マンション建設のため掘削したところ人骨が累々と出てきて言伝えが真実であることが証明されました。
ところでこの合戦、いったい何のための戦いだか一向に判らないというのが歴史家の疑問だそうです。
城奪還が目的なら決定的な兵力差からいって一日で城兵を制圧できたのに、 のんべんだらりと小田原からの北条軍の到着を待って和議に持ち込む必要性は全く理解できないと言うことです。

菓子屋横丁
札の辻の近くには「菓子屋横丁」があります。ここの駄菓子は終戦直後の東京の味がします。
関東大震災、東京空襲と二度にわたり東京のお菓子屋さんが壊滅したとき、 川越のお菓子屋さんは子供達のため沢山の駄菓子を東京へ供給しました。
世は豊かになり駄菓子の需要が減り、お菓子屋さんの数も少なくなってしまったのですが、 主婦達の発想で「菓子屋横丁」として復活し、今では川越名所になりました。
川越のお菓子は江戸・明治初期からの老舗銘菓とここの駄菓子に代表され、 他の観光地にあるような中途半端なものは見当たりません。


養寿院

河越氏廟所
河越太郎重頼
最後に菓子屋横丁の近くにある養寿院に、「川越」の名を残した河越太郎重頼のものと 伝えられる墓を訪ねました。
河越重頼は畠山重忠熊谷直実、那須与一に比べ蔭が薄いのですが、本当はこれら緒将を率いて 頼朝を支え鎌倉幕府御家人の頂点に立つべき武将でした。
一の谷合戦では鵯越の懸崖を駆け下り 平家本陣を壊滅させたのは川越の軍勢の功績が大きいと言われています。
この軍功で、河越重頼は現在の三重県一帯を所領として与えられました。

ところが頼朝義経の関係が悪化すると事態は暗転。義経の正妻が河越重頼の娘「於郷」(おさと) だったからです。
義経が奥州に向かい姿を暗ますと猜疑心の強い頼朝は「そちが義経を匿っているに 違いない」と重頼を誅殺してしまいました。ちょうど820年前のことです。
のちに娘おさとが平泉で赤子を道ずれに自害し、義経の後を追った事が判明して 頼朝の疑いは全くの濡れ衣であることが明白となり、名誉は回復されました。
乳飲み子を抱いて京都から平泉までの長途の逃避行と、その末路を想うと「おさと」が憐れです。

河越重頼・おさとを偲んで、何時の頃からかこの父娘の位牌がこの寺に祀られているとのこと。
徳川の世になって初代藩主が川越太郎重頼の名を惜しみ地名を残すこととし、当時は河と川が混用されていたのを 統一し現在の「川越」になったと伝えられています。

なお、河越館跡のある「常楽寺」(川越市上戸)に義経・京姫(おさと)の供養塔が建立され11月10日に除幕式があります。

(注1:土中に埋めた壷に滴る微かな水音を楽しむ高度な音響装置)
(注2:川越夜戦1545、桶狭間夜戦1555、厳島夜戦1560を言う)
記事:天空山人

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[天空山人]
〜川越ろうまん夢散歩(その9:近代日本画を創成した橋本雅邦)〜
日本画というと年寄りの骨董趣味とキメツけて、私めは関心を持たずににおりましたが、故東山魁夷画伯の風景画、平山郁夫画伯のシルクロード連作とかテレビの「なんでも鑑定団」で見直しました。
そして、川越が近代日本画に大変な役割を果たしていることを発見しました


■日本画の危機
時代は明治、「ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という変革の時代。
早く西洋の文化を取り入れて、日本を近代化せねばならない。
西洋のものは価値があり、日本のものは何の価値も無い。
古来からの日本画はうち捨てられ、日本画を学ぼうという人はいなくなりました。
学校教育も洋画のみとなり、音楽にしても同じです。

日本画は、遠近法を主とする洋画とは異なる独特の画法でモネ、ゴーギャン、ゴッホなど に多大の影響を与えております。 日本画に価値の無いはずが無い。
日本画を滅亡させてはいけないと考えた岡倉天心は、東京帝国大学の外国人招聘教授フェノロサと共に 日本全国のを巡り日本画の傑作を収集し、海外の美術館の協力を得てこれら日本画の保存に当たりました。
ボストン美術館などに日本画の傑作が数多く所蔵されているのは、このためです。(注1)


岡倉天心


■天心排斥と日本美術院創設
弱冠28歳で東京美術学校(現東京藝術大学)校長となった天心は「このままでは日本画は 滅びる。近代国家にふさわしい日本画をつくらねば」と改革をはかりました。
これが国の方針に反し、また、在来の日本画家の賛同も得られず学内外の反発を買い、 天心排斥の激しい運動が起こりました。

明治31年、天心は東京美術学校を辞し26名の同志とともに東京に日本美術院を創設しました。
日本美術院は橋本雅邦を主幹とし横山大観、下村観山、菱田春草らの気鋭の青年画家 による美術集団です。
映画製作でいえば天心はプロデュサー、雅邦が総監督といったところでしょうか。
盟友の狩野芳崖は、この時すでに世を去っていました。

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橋本雅邦と代表作「竜虎図」


橋本雅邦の父は旧川越藩のお抱え絵師で、雅邦は川越出身。
雅邦はすでに狩野派の画家として狩野芳崖と双璧をなす地位を築いていましたが、
国策で不本意ながら西洋流の油絵を描かされたり、海軍兵学校で製図法を教えたりしていました。
明治時代には洋楽では滝 廉太郎、洋画では黒田清輝がそれぞれ英、仏に留学し時流に乗りました。

■五浦での辛苦
しかし天心・雅邦達は日本に踏みとどまり、茨城県五浦(いづら)海岸に本拠地を移し新しい 日本画の創作に励みました。

志は壮として高かったのですが、それまでの名声・地位を捨てて ゼロからの出発です。
雅邦はじめ仲間はその日のメシのタネに困る生活となりました。
山崎 豊氏を始めとする川越の篤志家達(画宝会)は雅邦を見捨てず支援しました。アメリカ人ビゴーの財政支援もありました。

ここに集った画人達は五浦名物「アンコウ鍋」を囲んで談笑の夜を過ごしたこともあったでしょう。
読者の皆様も機会があればここのアンコウ鍋をご賞味されることをお奨めします。うまいですよ。

岡倉天心の六角堂(五浦海岸にて)


■近代日本画の創成
苦節10年、五浦の画家達は、明治40年(1907)に発足した文部省主催の展覧会(文展)に、 近代日本画史に残る名作を発表していきました。
遂に琳派、狩野派、北斎などの既成日本画とは別の世界を創成したのです。

橋本雅邦の貴重な作品は、川越市仲町交差点にある山崎美術館に展示されています。
山崎美術館は老舗和菓子屋「亀屋」さんに併設された美術館です。
岡倉天心の足跡は茨城県天心記念五浦美術館に見ることができます。


川越の「亀屋」さん


■その後
筆者は思いがけず妙高山麓赤倉高原で岡倉天心の碑をみました。
天心は大正2年、療養先のこの地で51歳の生涯を閉じたとのことです。
雅邦は、明治41年に74歳で没しています。

雅邦の伝統を継いで、川越からは小茂田青樹(おもだ せいじゅ、1891〜1933)、 小村雪岱(こむら せったい1887〜1940)など著名な日本画家が輩出しています。
なお、小茂田青樹は前報、その8「洋館めぐり」に出てくる「山吉デパート」をつくった山田屋吉右衛門 の息子さんだそうです。「旧国立第八十五銀行」は山崎 豊氏が創設者です。

いま、日本画では沢山の若い人たちが創作に励み、
登竜門となる展覧会もいくつも 開かれています。
これというのも天心・雅邦らの命を賭けた努力おかげと言えましょう。

(注1)ボストン美術館に収蔵された作品の里帰り展は江戸東京博物館 で平成18年10月21日から12月10日まで開催されます。

この記事の作成に当たっては茨城県天心記念五浦美術館( http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/index.htm )、
(財)山崎美術館( http://www.koedo-kameya.com/yamazaki/yamazaki.html )のご協力を頂きました。 茲に厚く御礼申し上げます。
記事:天空山人

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
〜 飛び入り特派員情報 〜

朝霞市の彩夏祭の写真が「昔江戸小町」さんから送られて来ました。
1984年に、始まったこの祭りは、1994年から祭りのイベントとして加えられたよさこい踊りで有名になりました。
北海道のYOSAKOIソーランに続く、関東一の規模となった「関八州よさこいフェスタin彩夏祭」。今年の彩夏祭は8月4日〜6日まで、子供から大人までたくさんのチームが、炎天下パワー溢れる踊りを披露しました。





また、昔江戸小町さんは結婚以来20年以上埼玉住まいですが、東京の生まれだということで、先日東京の人形町で開かれた「瀬戸物市」の話題も送ってくださいました。


今日は台風まじかという中、人形町の瀬戸物市に行ってきました。人形町の瀬戸物市は毎年8月初旬の3日間で行われます。人形町の駅から水天宮までの間の道路の両側にそれぞれのお店のテントを張り、瀬戸物、ガラス、スプーンやフォーク等いろいろな食器が所狭しと並んでいます。 本日の私のお買い物は・・・まずは私のダイエット用小さなお茶碗、とてもきれいな赤い有田焼きです。お値段は赤札の2割引ということで880円。次は衝動買いした穴のあいた大きなスプーン100円。それから江戸切子のお銚子2本、1本250円という特別価格を2本で400円にしていただきました。せっかくお銚子を買ったので切子のぐい飲み2個、昨年はもっといろいろな種類があったのですが、今年は2個しか残っていませんでした。1個700円で1400円のお買い物となりました。埼玉から1時間で出かける小さな旅、江戸下町のお出かけ情報でした。


記事・写真:昔江戸小町さん

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[天空山人] 〜川越ろうまん夢散歩(その8:洋館めぐり)〜






今回は、川越に点在する洋館を巡ってみます。
明治、大正、昭和初期に建てられたものです。
「じゃ、くるまやさん、おねがいしますよ。」


旧六軒町郵便局
今はレストラン。


川越カトリック教会
息を呑む清楚な美しさ。


旧国立八十五銀行
今は埼玉りそな銀行、時の鐘と並ぶ川越のシンボル。


旧山吉(やまきち)デパート(奥)
手前は田中屋美術館


いせやシマノ・コーヒー大正館


商工会議所


中成堂歯科医院
サンタ・モニカの別荘って感じ。


川越キリスト教会
煉瓦造りの落ち着いた雰囲気です。






「どれも、とてもモダンで、癒しを感じますね。 くるまやさん、ご苦労さん。」
記事:天空山人

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[天空山人] 〜川越ろうまん夢散歩(その7:川越ロケット物語2)〜
ミューロケットと川越ロケット研究所
前回はラムダロケットによる世界で4番目の人工衛星軌道投入成功までを紹介しましたが、 この成果を踏まえてロケットを大型化し、
国の宇宙科学研究機関は本格的な科学衛星の打上げ を始めました。
このロケットをミュー(M)ロケットと言い、全段固体ロケットで構成される世界でも 珍しい独特のロケットです。

ミューロケットは1970年9月25日に鹿児島県内之浦から初打ち上げを 行いましたが、その後改良が重ねられ、現在はミューロケット5型(M-V)が打上げに用いられています。
M-Vロケットは直径2.5m、全長30.8m、重さ140トンの3段式ロケットです。

今ではCFRP(炭素繊維)のゴルフクラブや釣竿、軽量チタン金属の眼鏡フレームなどは広く一般に普及していますが、 これらの産業用にも使用されているハイテク素材は、日本ではかれこれ40年前から「川越ロケット研究所」で研究・実験され、 ロケットの改良に使用されたのが始まりです。
ロケット技術の開発は社会の役に立っているのです。

「川越ロケット研究所」のスタッフは、実際のロケット打上げ作業、即ち、発射場でのロケットの 組立て、点検、発射の作業も担当しています。

M-Vロケット5号機
2003年6月9日photo:JAXA
ミューロケットは、川越の打上げスタッフの努力で、 これまで30機が打上げられていますが、最近の成果のひとつである小惑星探査機「はやぶさ」の打上げ成果 をご紹介します。
小惑星は沢山の小さな星のカケラが火星と木星の間で太陽周回軌道を回っているのですが、なかには地球に近づく 軌道を回っているものもあります。
「はやぶさ」は、そのなかのひとつ「イトカワ」と命名された小惑星に着陸して、 地球に帰還するという世界初の惑星探査機です。

小惑星探査機はやぶさ
photo:JAXA
「はやぶさ」は2003年5月9日、M-Vロケット5号機で打上げられました。
M-Vロケットは地球の引力を振り切って、太陽をまわる惑星軌道に「はやぶさ」を投入しました。
「イトカワ」に直行と言うわけにはいきませんから、地球と「イトカワ」との間で軌道を修正しつつ太陽を数回まわり 2005年9月12日に「はやぶさ」は「イトカワ」に到着し、11月20日と26日に「イトカワ」にタッチダウン。
「イトカワ」は写真で見るとおりの形で、研究者は通称「ラッコ」と呼んでいるそうです。

現在、地球との距離は約3億kmだそうで、「はやぶさ」は「イトカワ」とほぼ平行して飛行しています。 地球への帰還は2010年6月ごろの予定です。
得られた科学データは太陽系惑星の誕生の謎を知る上で学問的に非常に貴重だそうです。
筆者は、ミューロケットを用いた科学観測によりノーベル賞学者がでることを信じて疑いません。

小惑星イトカワ
photo:JAXA

さようなら、川越ロケット研究所
川越ロケット研究所は日本の人工衛星打ち上げ基盤技術を構築し、数々の最新技術を生み出しました。
そして、ここの陽気なロケット野郎達(もちろん女性もいます)は、内之浦、種子島はもとより、 南極、オーストラリアと各地で活躍しました。
スタッフは約200名にもなり、国際宇宙ステーションの日本実験棟「きぼう」の 一部まで担当するようになりました。
ところが、都市化の波にはかないません。
敷地に接して、関越高速道路がはしり、高層団地ができ、そして最近は小学校もできました。 こうなってはロケット実験どころではありません。
川越ロケット研究所は、主力工場のある群馬県富岡市に移転することになりました。
開設50周年にあたる今年(2006年)3月31日に研究所は閉鎖され、スタッフは粛々と川越を去りました。


この日、研究所正門の満開の桜が静かに名残を惜しんでいました。
しかし、研究所は移っても川越周辺に住み新幹線通勤するスタッフも少なくありません。
新聞・テレビで日本のロケット打上げが報道されたら、そこには必ず川越のロケット野郎達がいます。
読者の皆さん、かれらにエールを送ってくださいね。 フレーッ、フレーッ”カワゴエ!!”。

M-Vロケットも今年9月23日(予定)で打上げを終了し、低コスト高信頼性の新型ロケットにバトンタッチされます。
この記事の作成にあたっては(株)IHIエアロスペース並びに宇宙航空開発研究機構(JAXA)のご協力を頂きました。
茲に厚く感謝の意を表します。
記事:天空山人

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[天空山人] 〜川越ろうまん夢散歩(その6:川越ロケット物語1)〜

前の2回は昭和初期の二人の女流飛行士の物語を探訪しましたが、今回と次回は50年前のから現在まで続いた「川越ロケット研究所」を探訪してみます。
この研究所はマスコミに採りあげられる機会は少ないのですが、日本のロケットの歴史に重要な役割を果たしました。
実際の名称は「川越ロケット研究所」ではありません。この研究所を所有する会社は有為転変で名称が色々と変りましたので、記述を簡潔にするため、ここでは統一的に「川越ロケット研究所」と記載させていただきます。
まったく架空の名称と言うわけではなく日本、いや世界のロケット技術者の間では「カワゴエ」で通用するほど有名なのです。所在地は川越駅からJR川越線で西へ二駅目の「的場」です。

「的場」と言う地名は全国各地にありますが、ここは八百年前は「河越太郎重頼」(注)の軍勢の弓矢の訓練場であったと想像されます。その地にロケット研究所ができたのは、不思議な因縁があるのでしょう。

ペンシルロケットから栄光のラムダロケットへ
1955(昭和30年)年4月12日、東京国分寺市で「ペンシル」といわれる直径1.3cm長さ23cmの超小型ロケットの公開水平発射実験が行われました。
日本のロケットは戦時中は兵器として開発されていましたが、この実験は戦後の日本で宇宙空間へ到達することを目的とした始めての試射でした。
リーダーは東京大学の糸川英夫博士、ロケットの燃料は火薬で「固体ロケット」といわれる種類のものです。

糸川英夫博士
ペンシルロケット実験
(写真はJAXA提供)

しかし、宇宙空間へ到達するためには、大型で強力なロケットが必要です。
その開発には色々な実験設備と広い敷地、そして大勢の技術者がいりますから大学の研究室だけでは手に負えません。
糸川博士は、当時の富士精密工業(株)の戸田康明氏に協力を求めました。
そして、翌年の1956年1月にロケットの開発研究のため川越に実験所が開設されました。
そうです、今年は「川越ロケット研究所」の記念すべき設立50周年にあたるのです。
その頃の実験所の周りは雑木林で狸や雉などの野生動物も同居しており「森の中の研究所」の趣だったそうです。
研究スタッフは本社のある荻窪工場からマイクロバスで片道2時間半をかけてかよいました。
そして、高性能なロケット燃料、燃焼温度3000度Cに耐えるノズル(噴射口)、軽くて丈夫な機体構造などの自主開発に努力しました。

ロケットもベビー、カッパー(直径42cm)と大型化していき、高度60km以上に到達できるようになりました。1957−8年の国際地球観測年で上層大気の観測などの成果をあげました。
1957年10月4日、ソビエト連邦が人類初の人工衛星「スプートニク」を打ち上げ、1958年1月31日にはアメリカが「エキスプローラ」を打ち上げ、米ソの激しい宇宙開発競争が始まりました。
日本では、1965年9月に「科学衛星計画」を発表し、翌66年9月から「ラムダ4S」ロケットによる人工衛星打上げに挑戦しました。「ラムダ4S」ロケットは直径73.5cm、全長16.5mの4段式ロケットです。
ところが、やはり宇宙空間では予想できない事態が発生し、上段の分離失敗、点火失敗、追突などで、1969年9月までの4回の挑戦では、軌道投入に成功できませんでした。

これらの失敗の原因究明、再現試験、対策試験に「川越ロケット研究所」は全力を挙げました。
「川越ロケット研究所」の地道な研究試験成果によりロケットは逐次改良されていきました。
そして1970年2月11日、5回目の挑戦でついに人工衛星「おおすみ」の軌道投入に成功しました。
まことに苦難の道でしたが、日本は世界で4番目の人工衛星打ち上げ国となりました。


人工衛星「おおすみ」
(写真はJAXA提供)

すぐ後の4月24日には中国が人工衛星「東方紅」を打ち上げています。
なお、3番目は英国の「ブラックアロー」ロケットです。
人工衛星打ち上げは非常に難しく、ヨーロッパ打上げ機開発機構では「ヨーロッパ1型」及び「同2型」ロケットにより1969年から71年まで通算11回の試射をしましたが、遂に軌道に到達できず、計画を断念し組織も解散してしまったほどです。

国家の技術力を問われるロケット打ち上げへの「川越ロケット研究所」の貢献は賞賛に値します。
特に、他の国は「大陸間弾道ミサイル」という強力な軍事的背景を利用しましたが、日本は純粋に科学的立場からの技術的開発により人工衛星打ち上げを達成しました。
このことは私たち日本人の誇りではないでしょうか。
次回は、最近の活躍ぶりをお伝えします。

(注:「一の谷の合戦」の軍功により、現、三重県一帯の領有を許された。娘は義経の正妻、京御前。)

この記事の作成にあたっては(株)IHIエアロスペース並びに宇宙航空開発研究機構(JAXA)のご協力を頂きました。茲に厚く感謝の意を表します。

記事:天空山人

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[天空山人] 〜川越ろうまん夢散歩(その5:川越ヒコーキ物語2)〜

西崎キク飛行士編
前回は川越生まれ、川越育ちの田中阜子飛行士について探訪しましたが、 今回は、もう一人の埼玉県出身者である西崎(旧姓松本)キク」飛行士です。
彼女は川越に住んだことはありませんが、日本の航空史上重要な人物です。

西崎キク操縦の「白菊号」昭和9年10月26日、対馬上空

西崎キクは大正元年(1912)生まれ、埼玉県上里町出身です。前回の田中阜子飛行士より2才年上です。
この年には、大相撲の双葉山、米国俳優のジーン・ケリー、そしてアポロ宇宙船の月飛行を達成したフォン・ブラウン博士と日本のロケット博士・糸川英夫さんが生まれています。また、タイタニック号が沈没しました。 キクは浦和にあった「埼玉女子師範学校」を卒業し小学校教師となったのですが、ある日生徒達と新型飛行機のテスト飛行を見学したのがキッカケで飛行士の道を歩む決心をしたとのことです。
昭和8年8月に操縦士試験に合格、2ヵ月後に愛知県新舞子から水上飛行機で郷土訪問飛行を行いました。
一年後の昭和9年(1932)10月には、「白菊号」で「満州訪問飛行」を敢行しました。経路は東京−大刀洗(福岡)、ここから韓国の蔚山まで海上を飛行し、京城、奉天を経て首都の新京(現、長春)に辿りつきました。飛行距離2440km、途中、京城で不時着したりして14日間(夜間飛行も含む)かかったそうです。
西崎キク飛行士
 

羽田飛行場を離陸する「白菊号」昭和9年10月22日
満州訪問飛行ルート

この日本女性初の海上飛行を含む大冒険飛行に対して国際航空連盟は「ハーモン・トロフィー賞」を贈っています。
この賞の受賞者は、大西洋単独横断飛行の英雄「チャールズ・リンドバーグ」についで2番目だそうです。
時代背景としては、映画「ラスト・エンペラー」で描かれたように同年3月1日に愛新覚羅溥儀が「満州国皇帝」に即位しています。歴史認識問題で現在も悔恨を残しているその場、その時です。
続いて昭和12年7月には「樺太祝賀記念飛行」に出発しましたが、津軽海峡でエンジンが故障、西崎飛行士は冷静な判断で貨物船に救助を求め、近くに不時着水し救助されました。

その後、彼女は昭和13年に満州開拓団として渡満しましたが、時代は第2次世界大戦に突入しました。
そして昭和20年(1945)8月に日本は敗戦し、開拓団はソ連軍に逐われ、匪賊に襲われながら大変な苦労をして故国に引揚げました。
その悲惨さは、藤原てい著「流れる星は生きている」(中公文庫)に書かれています。
埼玉県からは492人が開拓団として出発したのですが、昭和21年6月に埼玉県庁に帰着したのは僅か133人だったそうで、実に3/4の人々は帰国できませんでした。
キク自身も夫は抑留され、かっての栄光の飛行コースを逆に辿って、幼い二人の子供を連れて逃げる途上で長男を失っています。
−−−戦争は絶対にしてはいけません−−−。
故郷でキクは開拓・教育・国際交流そして戦後の航空復興に尽くし昭和54年10月、享年66歳で他界しました。

「開拓地の子供たち」に出演のキク
(昭和13年、円城寺監督作品)
日本女性航空協会日本一周
に参加したキク(昭和51年)

このシリーズで二人の戦前の女流飛行士について紹介しました。
彼女達の足跡を辿ると、そこには物好きでお転婆なお嬢さんではなく、不屈の飛行機乗り魂で戦争の嵐を乗り越え、戦後は教育・女性の地位向上・航空復興に尽くした姿を見ることができます。
彼女達の雄渾な航跡に、私は尊敬の念を抱かざるをえません。
なお、朝のNHKドラマ「雲のじゅうたん」(昭和51年)の主演女優、浅茅陽子さんは番組終了後にハワイの飛行学校で本物の操縦ライセンスを取得したそうです。

(この記事の取材にあたっては、西崎 泉氏のご協力ならびに所沢航空発祥記念館資料、大里町役場資料を参考とさせていただきました。茲に厚く感謝の意を表します。頂きました。)

記事:天空山人

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[天空山人] 〜川越ろうまん夢散歩(その4:川越ヒコーキ物語1) 〜

川越といえば、江戸時代からの地方都市でお年寄りの散歩向けというイメージがあります。
それはそれで価値のあることですが、航空の世界では、かって時代の先端を駆け抜けた女流飛行士がいたり、宇宙の世界では日本の人工衛星打上げ技術を築き、世界一流の技術で現代の宇宙研究を支えているロケット研究所があるという進歩的な一面もあります。

今回は女流飛行士に焦点をあてて探訪してみましょう。
戦前、女流飛行士は27名いたそうですが、そのうち埼玉県出身者が2名で一人は上里町出身の「西崎(旧姓松本)キク」飛行士、もう一人は川越出身の「田中(旧姓西村)阜子(あつこ)」飛行士です。

田中阜子飛行士の巻
田中阜子さんは、大正3年(1914)に川越市に生まれました。
同じ年、映画スターのアレック・ギネス(代表作「戦場にかける橋」)がロンドンで、前年にはヴィヴィアン・リー(代表作「風と共に去りぬ」)が英領インドで生まれています。
昭和5年に旧制「川越高等女学校」卒業(現、川越女子高校の前身)。その頃は高等女学校に進む女子は少なく、優秀な良家の子女に限られていたようです。
その後、東京文化洋裁学校に通っていましたが、昭和8年、どういう理由か東京に開設したばかりの「田中飛行機研究所」に事務員として就職しました。
このとき心ひそかに飛行士を目指していたのかもしれません。

その頃の民間飛行学校は、明日はどうなるかも判らないけど、ただ夢に賭けた命知らずの男たちが集まっていたそうです。良い育ちのお嬢さんにとっては、とてもまともな就職口とはいえません。ときに阜子19才。
しばらくして、飛行練習生となりましたが、天性の才能があったのか操縦技量がメキメキと上達しました。
そして、荒くれ男たちを尻目に、昭和10年に21歳で操縦士試験に合格して、教官を務める程になりました。日本で5〜6番目の女流飛行士だそうです。

このまま立派な飛行教官として後進の指導に専念するはずでしたが、人間、先のことはわかりません。
幸と言おうか不幸と言おうか、阜子さんは大変な美人だったそうで、映画会社のお誘いで22才のとき「日活多摩川撮影所」から女優としてデビューしたそうです。「女優飛行士」の誕生です。
こんな人、世界に類がありません。
主演の第1作は「翼の世界」、昭和12年製作の無声映画が残っています。上映には弁士が必要です。その後「嫁ぎ行くまで」、「青い背広」(♪青い背広で心も軽く、・・)と立て続けに出演し一躍スターとなりました。

飛行士・田中阜子
旧制川越高等女学校の制服

そして、田中不二男氏(田中飛行機研究所長)とその年結婚、阜子23才。
田中所長は美人の教え子を手放したくなかったのでしょう。
媒酌は小笠原陸軍中将ご夫妻という立派な結婚式だったそうです。
翌年、東京の洲崎飛行場から川越に郷土訪問飛行をして機上からテープを撒いて市民の歓迎に応えました。
ほんとうに華やかなデビュー振りです。

ところで、田中阜子飛行士のその後ですが、郷土訪問飛行以降、公表された記録がなく杳として判らないのです。
まるで彗星のように現れて、彗星にように消えたとしか言いようがありません。
「いや、結婚して普通の幸福な生活を送ったようですよ」という人もいます。その通りなら、誠に結構なことだと思います。
この時代、米国の「アメリア・イヤハート」、ドイツの「ハンナ・ライチ」を始め、多くの女流飛行士は戦争の嵐のなかで数奇な運命を辿っています。日本の女流飛行士も例外ではありません。

旧制川越高等女学校の歴史を残す建築物は、現川越女子高校の煉瓦の脇門と記念館(作法室)があるのみです。
煉瓦の脇門は粗末に扱われていて残念です。正門の桜並木は、往時を思わせて毎年、美しい花を咲かせています。
所沢航空発祥記念館には、彼女が乗ったであろうサルムソン2A2型機と同型機のプロペラ、写真などが展示されています。

川越女子高の桜
女優・田中阜子
  • アメリア・イヤハート(1897-1937):太平洋島伝い横断飛行中に行方不明。日本軍にスパイ容疑で捕らえられたとの説もあるが、日本側にその記録は無い。
  • ハンナ・ライチ(1912-1979):マスコットとしてナチの宣伝に利用された。敗戦とともに家族を失い、南米に亡命。絶望的生活の中で60歳を過ぎてグライダーによる成層圏に達する世界高度記録をつくった。
(この記事の取材にあたっては、田中不二彦氏のご協力ならびに所沢航空発祥記念館の資料を引用させて頂きました。茲に厚く感謝の意を表します。)
記事:天空山人

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[天空山人] 〜川越ろうまん夢散歩(その3:桜と神社めぐり)〜

桜の季節となりました。
川越は、橋本雅邦(日本画家)、島崎藤村(詩人、小説家)、小茂田青樹(日本画家)などにゆかりが深いので、今回は世俗を離れ、文人墨客を気取って桜めぐり、寺社めぐりといきましょう。
銀縁眼鏡に懐中時計、女性なら袴など着用して、人力車に乗ってといった風情です。人力車にはお金があったら乗って見ましょう。

出発は東武東上線「川越市駅」、知る人ぞ知る「カワジョの桜」を見に駅から200mの川越女子高校に向かいます。この高校は小宮悦子さんはじめ多くの才媛を輩出した有名校です。
正門に向かって50mほどの乙女の園に相応しい桜並木があります。駅からたったの200mですが、道が入り組んでいて分りづらいので迷ったら町の人に聞きましょう。

カワジョから六軒町交差点にでます。ここでちょっと寄道してみましょう。
交差点から東にすこし行って最初の左の横丁に入ります。標識はありません。左手に白い2階建ての木造洋館が見えます。
その手前ちょっと奥まって和風の家と庭園があり、門前に「旧大工町」の石標があります。ほかに説明看板はありません。
ここは本当はお教えしたくないのですが、−「小泉八雲」が滞在した家だそうです−。
八雲は松江が有名ですが、残念ながら川越には住んでいません。
なんでも八雲が大宮あたりに短い期間滞在したことがあり、その住居がどういう運命のいたずらかここに移築され、今は市の中央公民館の管理下にあります。この辺のことは調べてみる価値がありそうです。
ここは広く一般に開放されているわけではなさそうです。
公民館にお願いすれば見学させていただけるかもしれません。


その先、右側に「まっくらや」という変な名前の「行列のできるパン屋」さんがあります。
そこを過ぎて、右手の大きなマンションの間の細い路地を右に入ると蓮馨寺さんの境内に出ます。ご参詣して桜をみたら正門にでて右手が「連雀町交差点」。ここからまた東に道をとります。
この道路は今は県道「川越・日高線」で幹線道路ですから散歩にはちょっと煩いのですが、このあたりを島崎藤村などが昔歩いたのでしょう。
次の松江町交差点の角には前回ご紹介した、うなぎ料理「いちのや」があります。しばらく行くと右手が交通安全の霊験あらたかな「成田山川越別院」です。
その先を右に折れれば「喜多院」・「仙波東照宮」に入ります。門前の通りに「西山歴史博物館」があります。
喜多院は、家康の師「天海僧正」により隆盛しました。境内には見事な桜が咲き乱れています。

書院・客殿は現存する唯一の江戸城の建物で「家光公誕生の間」、「春日の局化粧の間」があります。小堀遠州による庭園も拝観できます。
「五百羅漢」では、あなた自身に似た羅漢さんを見つけるのも楽しいものです。お寺さんですから酒類は売ってませんが、茶店には「甘酒」があり、花冷えのときには甘酒でホッと一息といきましょう。
仙波東照宮と喜多院は境があるような無いような関係です。
全国には50くらいの「東照宮」があり全国東照宮連合会があるそうですが、、ここは「三大東照宮」(日光、久能山、仙波)のひとつで由緒ある東照宮です。
以前は入り口の階段付近に「なんじゃもんじゃの木」という摩訶不思議な木があったのですが、一昨年訪ねたらもう枯れてしまったとのこと。なんとか復活させたいものです。「どろぼう橋」なんてのもあります。

東照宮から南にいくと「中院」(なかいん)です。藤村の妻の実家は川越で義母の加藤みきは「不染」と号した茶人。
ここに墓所と茶室「不染亭」があり、墓碑の「蓮月不染の墓」は藤村直筆です。
加藤みきは藤村の著作の刊行にあたり力を尽くしたそうです。
中院の「枝垂れ桜」は日本の桜50選にもかかげられる名桜。中院は桜に限らず、四季折々に花が咲き、閑寂な趣があって文人墨客に好まれるお寺さんです。近くの「光西寺の枝垂れ桜」も見事ですからご覧になることをお奨めします。
お食事どころは、喜多院門前の茶蕎麦・うなぎ料理「寿庵喜多院店」、このサイトに掲載されている蕎麦の「鎌倉」さんなどです。
娑婆っ気が抜けずお酒がなくてはという御仁には本川越駅そばの割烹「福登美」、もっと安直にという場合は鮨屋、焼き鳥屋で一杯やって一日の清遊を締めくくりましょう。

桜の見どころは北の氷川神社周辺とか他にも沢山あり、おりしも「小江戸川越春祭り」(3月25日から5月8日)で多くのイベントが催されています。

記事:天空山人

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[ボーイスカウト親父] 〜 オーバーナイトハイク 〜

いやーぁ ねむい!
1/27金曜日の夜11時からオーバーナイトハイクをしてきました。
けして夜通し俳句を書いている訳ではありません^^;

地元を出発して集合地点の和光市駅に到着したのは22時半。集まったスカウト、保護者の人数は総勢40人。
下は小学校2年生から55歳のおばさんまで。。なんとバラエティに富んだ人員構成か・・
ボーイスカウト親父はといえば・・軽装で夜中の寒空を歩く格好はしていない。
今日は、途中サポートの車部隊と写真班です。

このような行事をする場合は、各隊で役割分担され、途中のリタイアに備える車両班と途中の休憩地点でお茶を出す班、ゴール地点で炊き出しする班など・・班編成されます。
もちろん年齢も考慮されているみたいですが・・^^;

子供たちが安全に行事を行なえるように配慮しながら裏で、一生懸命がんばっているんです。
今回、やっと無線の免許が役に立ちました。
あれから、マニュアルを熟読し使い方をマスターして臨みました。


私は夜中に起きているのが「大の苦手!」なんせ「早寝早起き」を生活の心情にしているのですから当然といっては当然のこと。夜中の2時を過ぎた頃には頭の奥から「ねむろうよ・・」と誘いの声が・・・・・。前回は、待機中に物凄く眠かったことを考えて。。今回は、DVDを2本も用意しました。。。
が、それでも選んだ作品が悪かった。。物凄くつまらない・・見ていると瞼が閉じてきそうなもの・・時々、外に出て深呼吸。
コーヒーを飲み、ガムを噛んで必死にこらえる・・いじらしい中年おじさんでした。

全行程22km。子供たちはよくやりました。
寒い中、各隊目標地点まで全員完歩でした。

驚いたことには、小学校2年の女の子は最後まで歩き通しました。
「よくがんばったね^^V」

来年は、我が息子もカブ隊に入隊し、この子のように歩けるだろうか??と親馬鹿な「ボーイスカウト親父」である。
記事:ボーイスカウト親父

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[天空山人] 〜川越ろうまん夢散歩(その2:「蔵造り」と「時の鐘」を歩く)〜

川越の町の中心は、異論もありましょうが、「連雀町」交差点とすれば分りやすいと思います。
本川越駅前から北に向かって三つ目の信号のあるところです。
ここは市を東西に横断する大宮ー秩父方面と南北に縦断する所沢ー東松山方面への道路の交点です。
直進で市の中心を通り抜けられる道路は、この二つしかないようです。市の住民以外で、脇道に入って無事に通り抜けられたクルマは、まずありません。川越警察署の悩みの種です。

連雀町から北がオールド川越のダウンタウンで、有名な蔵造りの町並み、菓子屋横丁などがあります。
南の方は現代の川越ダウンタウンで目抜通り「クレアモール」等がありデパート、ファッション店、レストラン、銀行などが川越駅まで軒を並べています。
東に向かえば、喜多院をはじめとする寺、神社があります。

「蔵造りの町並み」は色々なガイドブック、ホームページに紹介されていますが、ここを抜きにしては川越を語れません。

仲町交差点から北の札の辻交差点まで約500m、ざっとみて20軒の蔵造りの商店が道路の両側に並んでいます。
ところどころにレトロでモダンな洋館がありますが、これも多くが大正から昭和初期の建物です。
この地域は市条例で「伝統的構造物群保存地区」として保存されています。

仲町交差点に立つと、約100年前に建てられた重厚な2階建ての蔵造りに圧倒されます。
明治26年(1893)の川越大火の際、伝統的な蔵造り棟のみが焼け残ったのが教訓となり、復興にあたり商人達は競って蔵造り店舗(店蔵)を建てたのだそうです。
倉敷などと違うのは、ほとんどの蔵が黒で塗られていることです。
これは江戸の粋な黒に倣い、漆喰の白壁の上に艶やかな黒で塗装したものです。その艶やかさを保つため大変な努力をしています。

最も古いものは大沢家住宅(重要文化財)で、200年以上前から、じっとそこに建っていて営々と商いを続けています。
昔は履物屋でしたが今は民芸品などを扱っているとのこと。
これらの店蔵は、金物屋さんなどのごく普通の店舗兼住居ですから内部を見るのは遠慮しましょう。
「蔵造り資料館」では蔵造りの内部を見学できます。
この街通り、「一番街」には電柱はありませんが電気は来ています。空がきれいです。

時の鐘は、寛永年間にに建てたものが最初といわれています。前述の大火で失われ、その後再建されたのですが、約350年前から、ずっと時を知らせ続けているのです。ヨーロッパでは魔女狩りなどが行われ、ガリレオが没した頃からです。
アメリカ合衆国なんてのは、それから150年くらい経ってから出来たんですね。

鐘を打つのは昔は約1時間おき、今は午前6時、正午、午後3時、午後6時です。世界遺産ものではないでしょうか。しかも現役。
昔は鐘突き男が鳴らしていたそうですが、今は電気モーターの機械仕掛けだということです。 写真は、このサイトのどこかにあるので省略します。

歩き疲れたら「陶路子」(トロッコ)でコーヒーでも。ここは陶器屋さんがやってるの店で、昔、店先と奥の蔵の間の商品運搬にトロッコを使っていて、それがそのまま店名に。
トロッコも、なんとそのまま置いてあります。
昼食のお奨めは、「えぷろん亭」です。有名な料理研究家の店で、家庭的で宜しいのですが午前11時30分開店、一日60食限定、売り切れたらその日の商売はお終いということですから予約しておいた方が安全です。
うなぎ料理の「いちのや」さんは天保3年(1832)創業とかで、これもお奨めです。

200年前からの蔵に住み、350年前からの鐘の音を聴き、170年前からの「うなぎ料理」を食する。私めも、こんな町に生まれ育ちたかったです。
私がもの心ついた時は、空からいっぱい火の玉が降って来て、みーんな焼払われてしまったので、私には故郷というものがありません。

記事:天空山人

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[天空山人] 〜 川越ろうまん夢散歩〜

川越ろうまん夢散歩(その一、前口上)
今は絶滅に瀕しつつある焼芋屋さんの売り声「九里四里うまい十三里」に代表されるように、川越は江戸から約40kmの位置にあり川越イモの産地として知られていす。さぞかしイモねえちゃんが多いだろうと思いきや、美人系の川越小町が多いんです。

これって歴史に根ざしていて、源頼朝の乳母「比企の局」や義経の正妻「京御前」などの血を受け継いでいるからではないでしょうか。
鎌倉幕府の重臣として川越の名を残した河越太郎重頼の娘おさと(御郷)が「京御前」です。この父娘は歌舞伎「義経千本桜」にも登場します。時代は下り戦国時代、川越は北条と上杉の戦乱の場となりました。

徳川の世となってからは幕府の直轄地として大消費都市「江戸」の北の護りと食料・物資の
供給基地の役割を果たしました。文化的関係も濃く「小江戸」と呼ばれる由縁です。
明治以降、川越では時は静かに流れ関東大震災や空襲の被害にも遭いませんでした。
そういうわけで、狭い川越市内には鎌倉時代からの事跡、建造物がまるで落葉が重なるように
積重なっているのです。伝統的行事も沢山あります。

おっとりとした川越びとたちが、この歴史的遺産の貴重さに気づかずに暮らしているうちに、町のあちこちに高層マンションが建ち並び、増殖しています。
このままでは小粋な江戸情緒を残す町並みや大正浪漫も大田舎・東京に飲み込まれてしまうでしょう。最近になって市は条例をつくり伝統的建造物の保存地区、景観形成地域を定め保存に力を注いでいます。
一方、芋煎餅に代表されるB級グルメから江戸時代から続く超A級料亭、国際コンクール連続優勝のスペイン料理店などもありグルメの町でもあるのです。

地理的には池袋、新宿から電車で35−40分ですから見物がてら美味しいものでも食べて
というお散歩にはもってこいです。
市内の交通の便は、東武鉄道・西武鉄道の2大会社の仲が悪いのに加え、狭い路地、鍵の手、袋小路など江戸時代の軍師の策謀のため、あまり良くありません。
市自体が小さいので歩いて回ることをお奨めしますが、市内巡回バスが運行され歩くのが苦手な方も心配いりません。レトロなボンネットバスもあります。

川越駅、本川越駅の観光案内所には詳しいガイドマップがあり、親切にアドバイスして貰えます。
一日では川越は見切れませんから、回を追って見所、エピソード、お奨めグルメスポットなどお知らせします。お楽しみに!

川越市役所 http://www.city.kawagoe.saitama.jp
小江戸川越観光協会 http://www.koedo.or.jp

記事:天空山人

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[ボーイスカウト親父] 〜 番外編 〜

息子が突然・・・「おとうさん・・・おれ・・・学校行きたくない!」
どうしてかと問いただすと・・・
「友達がちょっかい出してきて、蹴ったりぶったりしてくるんだぁ・・・仕返しすると先生におれも一緒に怒られるから・・おれ何もしないんだぁ・・・」 と。

先生は喧嘩両成敗!とでも思っているのだろうか??それが今の教育なのだろうか??
昔は、やられたらやり返す!あたりまえのことだった。
ボーイスカウトでも子供たちの間で、喧嘩はよくある。そんな時・・・どちらが悪いでもないが・・・理由を聞くことにしている。

喧嘩には何か理由があるはずである!
先生は、何も聞かずに「二人とも悪い!」と決め付けてしまうらしい。
息子にはいつも「どうしてそんなことしたんだ?理由があるだろう・・」と弁明の余地を与えている。
正当な理由がある場合もある。すると「よくやった!」と誉めてあげている(馬鹿親かもしれないが・・^^;)

昔は、怖い先生がいて、最初にゲンコツが二人の頭に飛んできて。。それから理由を言わされ、どちらが悪い!と判断してもらっていたと思う。
それが、今は無いのだ。
最初に喧嘩を吹っかけてきた相手と、受けて立った息子と、どちらが悪いでもなく、一食単にされてしまうのだ。
不公平極まりないとはこのことだ。学校教育が公平公正を基本としているなら、悪いやつは裁かれなくてはいけないのである。
犯罪者が保護されて、被害者がないがしろにされている・・まるで近頃の警察事件のようである。

成績表を見てもそのような傾向にあると思う点が多々ある。

なんだぁ あの○と◎・・「よい」「もうすこし」そんなんで成績が・・・理解度が表せるのか??
どのくらい理解できているかは5段階で評価すべきじゃないのか??

教師の質の低下が取りざたされているが・・・その前にどうしたらその子の特性が伸ばせるのかを先生は考える必要があるのではなかろうか。。。。
味噌も糞も一緒!

学校自体がそんな風になっているように感じてならない・・・ボーイスカウト親父である。

記事:ボーイスカウト親父

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[ダックスの母] 〜 自然を楽しみながらウォーキング スリーディズマーチ〜

いつも、新聞上でスリーデーマーチの記事は読んでいたのですが、今年は日頃の運動不足解消のために初めて参加しました。

11月5日、天気予報の雨の予報もめでたく外れ、朝、10時前の受付に並びました。
「5qしか歩きたくない」言いつつ保育園の子供まで10qのコースを申し込んでいるのを見て10qに変更。

東松山を出発して、それぞれの体力に合わせて5qから50kmのコースを武蔵野の自然を楽しみながら比企丘陵を歩きます。
 スリーデーマーチは今年で28回目、ウオーキングのメッカ、オランダのフォーデーズマーチに次ぎ、世界で2番目の規模を誇る大会になっているそうです。

今年で連続12回出場のゼッケンをつけたシニアの方、3日間50qを歩きとおすアスリート、ゼッケンにも「がんばって歩くぞ」とか「楽しんで歩きます」など様々なメッセージが書き込まれ大きなコミュニティの場になっているようです。おじいちゃんと孫、会社の友人同士や家族など、自然の中を歩きながら半日間、会話も弾むから不思議です。

コースの終わりは、みんなで森林公園を通る形になっていました。

森林公園で見かけた菊の展示会の作品。

傍らではみかんがたわわに実っていました。

森林公園はもうすっかり秋の色、菊の展示会場もあり、海外からの参加者と仲良く写真を取ったり、広場でお弁当をひろげたり賑やかな歓声があちこちで上がっていました。

最後は、ボランティアの方々の「あと、1q」「あと500m」の声に励まされてゴールイン。結構、歩けるものですねえ。3日間を通じての参加者は、のべ83,000人!
ボランティアの皆さん、本当にご苦労様でした。そして楽しい一日をありがとうございました。
来年は、元気埼玉のみんなで参加したいものです。

記事:ダックスの母

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[ボーイスカウト親父] 〜 ボーイスカウト奮戦記5 〜

名栗・・・星空観察キャンプ

今日も晴天!私たち指導者は朝の7時半に駅集合。
今日のキャンプのために栞を作ったり、プログラム企画書を作ったり・・・充分に準備を済ませて集合しました。
ただ・・・不安なのは足(3週間前に肉離れしてました)。 まだ、若干痛みは残るものの、決断して参加しました。

今日も隊長は不在。
44歳のおばさん(失礼!)と48歳のおじさん副長コンビです。
おばさんいや・・お姐さんは子供たちのお泊りリュックを車で運ぶために別行動です。
つまり、私が今回の移動は責任者。
8時に子供たちが集合し、8時15分に乗車の段取りで進むはずでした。。。が、何だカンダで結局、15分には乗れずに次の電車で・・・ あぁぁ・・・・

八高線の乗り継ぎ時間も8分で切符を買い終わって急いで飛び乗る始末。。。どうなることやら。
お姐さん副長と正丸で合流し30分かけて名栗元気プラザまで・・・山登り。
夜は施設の屋上で星空観察、そのあと営火を囲んで室内でキャンドルサービス・・・。

 

と順調に終わりましたが・・・
翌日は朝9時半に出発し西吾野まで・・子供たちを連れてハイキングです。
6時間の行程を一列になって進みました。これがきつい!

登りは息が切れるし・・・下りは膝が痛くなる。子供たちは先に行くし・・・。
歩いているうちに寡黙になっている自分に気づき・・・顔を引きつらせながら笑顔を作っていました。

笑顔の裏には・・・「もう勘弁してくれ〜!!!!!!」と書いてあったかもしれません。
おじさんは疲れてるんだ・・・来年からはサポートに回ろう・・・と心に決めたのですが やはり、だめだよなぁ。

 

今回、山で転んで骨にひびが入ってしまった子供を担いで連れてきたり・・・。
スカウトチーフで応急処置をしたり・・けっこう活躍してしまったので来年も頼りにされちゃうかな???と思って・・・。

帰って翌日からは足が上がらずボロボロでしたが・・・。

あの、子供たちの頑張りをみてると・・・おじさんも頑張らねば!と自分を奮い立たせてみるのです。

そうそう・・・忘れてました。
無線機持っていったんですが・・使い方がわからず役に立ちませんでした^^;
今度は説明書を持っていこう!

記事:ボーイスカウト親父

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[ボーイスカウト親父] 〜 ボーイスカウト奮戦記5 〜

集会を体験中です。。。。。

那須から帰ってきて早2ヶ月。・・数回の組集会、隊集会を体験しています。
組集会は子供たちが少人数の組に分かれ隊集会前の事前準備や勉強を行なう活動です。
隊集会はその発表の場と考えていいでしょう。

10月のテーマは「おいらは大工!」

みんな鋸や金槌を手に 何を作ろう? から始まり、図面を元に工作をして・・その作品発表までをこなしました。

 

いつもなら、隊長がすべてを仕切っ てくれるのですが・・・仕事の都合で今回は、副長2名(私を含めて)で進行です。

事前準備から実施計画書の作成・・・
テーマの説明から・・
SONG(ボーイスカウトの歌)を歌って・・・
作品制作上の注意からやる気を出させるアドバイスまで・・・
そして最後は・・友達の輪を作って解散!

あぁ〜  しんど
これが3回続くのかよ・・・

まじめにやってたら疲れてしまいます・・・
が、そこが新米見習副長の辛いところ・・・なんとか、二人でこなしました。

子供たちは自分たちの作りたいものを発表します。
でも・・勝手なもので自分では作れそうにないものまで・・そこでボーイスカウト親父の登場です。

 

私は趣味でWoodDeckを作るほど・・子供たちの要望を図面に落とし、1枚のラワンコンパネから最大限に有効利用できるように、必要な材料分を区分けします。
(ここが予算のない隊の辛いところ)

第一回目の組集会はここまでで終了!
そして、いよいよ第2回目の組集会は作品制作です。

保護者の協力もお願いし、各自で作りたいものを作成しました。。。というより保護者の腕比べだったような???
でも、後は色塗りだけ残して最後の隊集会へ・・・・・・
いろいろな絵の具を作品に塗りつけ・・一応、使えるものらしき作品が完成です。
当日は、保護者も、各隊指導者もみんなで子供たちの作品を観にきてくれました。
こんどは、自分でできることをしような!

というわけで・・無事、今月のテーマは終了しました。でも・・・・・

来月は・・名栗のキャンプ(舎営)が待ってます。
またまた隊長は仕事の都合で来れそうもありません。
おまけに・・私は子供たちと遊んでいたときに「肉離れ」で歩けないんです!!

どうなることやら  次回は名栗の様子をお伝えします。

点点・・いつも応援ありがとう!^^

記事:ボーイスカウト親父

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[第14号 ボーイスカウト親父] 〜 ボーイスカウト奮戦記4 〜

アマチュア無線の免許が取れました&那須の研修

アマチュア無線の免許を取れました! 応援ありがとうございます。。^^
ということでお約束のボーイスカウト親父奮戦記です。

先週(9/18〜25)は勉強週間だったような気がします。

週はじめはアマチュア無線講習会、そして木曜日からはボーイスカウトの隊長研修
(Wood Badge)に行ってきました。
ウッドバッジ研修所は全国から指導者になるために研修を受けにくる場所です。



今回は当団からも数人が研修を受けに行きました。
朝の6時に出発し2時間半の行程で那須の野営場に到着します。
受付を済ますと名札の色で4組に分けられ、各組一列縦隊。
私は先頭に。。何故か先頭はみんなおじさんばかり。。。あ〜ぁ 俺もおじさんなんだなぁ・・とこれから3泊4日のキャンプ生活です。

まずは組ごとにテントを立て、炊事場(最初はスペースだけが与えられます)にタープを張り、生活するのに必要な道具類を渡されます。
テントは許せるものの・・炊事台などなど何もない!・・・「作れ!」・・か???
嫌な予感!!   「竹があるので・・紐で工作してください!」 だって (TT)

昼までの間に生活の準備(テント張りなどなど)をし、しかも飯を薪で焚け!ですと・・しかも時間は1時間もない。

そんなキャンプしたことないよ〜ぉ

でも、できるものです。みんなで協力して行なえば!直ぐに連帯意識が芽生え、ぎこちない中にも手際よく昼飯まで終わりました。それから毎日、食事作り、講義、実習の連続。その合間に竹を使っての工作。

あぁ〜帰りたい!!!ボーイスカウトの隊長になるってことは・・こういうことなんですねぇ・・

不思議です、慣れるって。日を重ねるごとに時間の余裕が出てくるんです。最後はみんなでお茶を飲みながら談笑するくらいの余裕がでてきました。(もう、30年も前のこと・・警察学校に入った時のことを思い出しちゃいました。)

私の組にちょっと年の重ねた昔の「紅一点」が居ました。その人は最終日に「点点」と呼ばれるようになりました。その人の存在があったればこそ・・雰囲気が和らぎ、チームワークの良い組ができたのかもしれない・・などと勝手に思い込んでいます。

なぜ「点点」か?

それはキャンプファイアの出し物のときに、「尻文字当て」で彼女が「点点」だったからです。それ以降、彼女は名前では呼ばれずに「点点」になってしまいました^^

今回の研修では「出された課題を時間内にこなすよう訓練すればできる。」ということを学んだ気がします。しかし、子供たちに向かって・・「目標は高く、時間をかけて到達させること」の意義を理解させることが、私にできるかどうか???

不安である。

まだまだ。。ボーイスカウト親父の修行は続きます。

記事:ボーイスカウト親父

特派員便り 川越・所沢「ダックスの母」
[第13号] ダックスの母 〜 国の重要文化財 小江戸川越の川越祭り 〜

先週の10月15日と16日の二日間、川越祭りが開かれました。
残念ながら15日から16日の午前中は雨。ようやく雨が上がった頃に見物に出かけました。
この祭りは江戸時代から約350年続いた祭りで、小江戸川越にふさわしく江戸の祭りの趣を残しています。


祭りの主役となる山車は、町名または人形名で呼ばれいずれも趣向を凝らしたものです。
今年は国の重要無形民俗文化財に指定され一層華やかな祭りとなりました。
町内でそれぞれ揃いの祭りの衣装をつけ、蔵作りの街を歩く様子に、街や歴史を大事にする川越の人たちの気持ちが感じられました。
記事:ダックスの母