
明治40年生まれの父・慎一が、2月26日、雪の降りしきる夜に、旅立ちました。
「原村より愛をこめて」を開いてくださる皆さまには馴染みの父でしたので、この週は私事ながら、父のことのみ書かせていただくこと、お許しください。
100年の時を刻んだ父の死と同時に止まったのは、「古時計」ではなく、
我が家では、私の「パソコン」でした。 お悔やみのメールなど、沢山いただきながら、送受信が不可能になり、いまだ失礼しております。ここでお詫びとお礼を申し上げます。
昨年7月14日、父の百歳の誕生会まではとても元気でおりましたが、
お正月、横浜の母を訪ねて以後、少し体力が落ちたようにも思えました。
今、介護日記を読み返すと・・・・・・・
1月3日、母を訪ねて帰宅した深夜2時、父はしゃべり始めました。
「さ〜、そろそろ出発の準備に入ったよ。
よろしく頼むね。
お前のことはず〜と見てるから安心して。
さ〜出発、、、、、、」
私はびっくりして飛び起きましたが、、、父はスヤスヤ。
このあと、静かな時が流れます。
1月23日、車椅子が届いた日(一度しか乗ることはありませんでしたが)の深夜。
「あそこへ帰らなきゃね。子供がいっぱいいるよ」
2月9日、深夜、飲み物を飲ませると、
「これで勝負を続けなきゃね。」
「?」と私。
「生きていくこと」と、父。
この後、父は、即身仏という言葉がありますが、大好きな御菓子類を 食べなくなり、食はますます細く、一日わずか一口か二口ばかり。
水分は3日前から、小さじ5杯くらいの量になり、点滴も自ら断り、 家で、静かな日々を送り出しました。
亡くなる26日、助産婦ならぬ「助死婦」(私が勝手につけた名ですが)に最もふさわしい、 妹分の秋草ルナさんに父を託し、大変に恩ある方の出版記念のお祝いと、兄を迎えに東京へ向かいました。
ベッドの父に「今夜帰るから」と挨拶。
父は笑みを浮かべて大きくうなずきました。
私は安心して出かけました。
秋草ルナさんの報告です・・・・。
「お父さんに沢山の思い出を語りました。
浅草での楽しかった日々、、、
花火・三社祭りのいなせな半被姿・毎日通った喫茶店、、、、、
沢山の歌も歌いました。
父さんはしっかりと目を開けて、私の手をさすってくださったり、
話に応えるかのように手を強く握り返してくださったり、、、、
せっちゃんの替え歌が特にお気に入りだったようで、、、、
大きく目を開き、首をまわして顔を見ました。
その後、気持良さそうに目を閉じたので、眠いのかと思い、
耳元で、また歌を歌いつづけました。
気が付いたら、呼吸がゆっくりと消えていきました。
とてもやわらかな顔でした〜〜〜〜〜」
私が兄と我が家にたどり着いたとき、
父はいつものお気に入りのスタイルで
いつものベッドに横たわっていました。
とても穏やかに、幸せそうに、、、、、
100歳の大往生でした。
父の亡くなった日の大雪は、
翌日通夜の日、雲ひとつなく晴れ渡り、
父が愛した原村は白銀の世界に変わっておりました。
翌日、葬儀の日、
父はますます素晴らしい世界を私たちにプレゼントしてくれました。
雪の原村を初めて訪ねた兄と義姉と姪の久美子が、
「おじいちゃんは、僕達にこんな美しい原村を見せたかったんだね〜」
八ケ岳はこれ以上ないほどの上機嫌な美しさでした。
「仕事を続けながら、介護は大変だね〜」の皆様の温かい励ましを
いただきながら、本当は楽しい日々であったのかもしれません。
何故なら父は、いつも穏やかで、一つの御菓子を必ず半分分けてくれ、困った時、「大丈夫だよ」といい続けてくれました。
夜中、つらい日々も「もうすぐ夜が明ける。大丈夫だよ」
100歳の介護でなく、介助をさせていただいた日々に、
今 感謝の思いで一杯です。
勿論、皆様の励ましがあったからこそです。
ありがとうございました。
これからは、父がいてくれたからこそ生まれた沢山のありがたいご縁に どうお返ししていくか、父から宿題をいただいた気がします。
ありがとうございました。